人間は聖と俗を合わせ持った存在。ある時は聖人に、ある時はとてつもなく俗物に。そこが人間は面白い 『エル・スール』を読む【緒形圭子】
「視点が変わる読書」第11回 人間の聖と俗 『エル・スール』アデライダ・ガルシア=モラレス著
■人間は聖と俗を合わせ持った存在である
女性の名前は映画ではイレーネ・リオス、小説ではグロリア・バリュと異なっているが、かつて恋人で女優ということは同じだ。
映画の父親も小説の父親も、時間的にも距離的にも離れているにもかかわらず、かつての恋人への思いを断ち切れず、家族を捨てて恋人とやり直そうとするが恋人に拒絶され、猟銃自殺してしまう。
映画は、父親が夜中に家を出て自殺したことを家族が知るシーンから始まり、エストレリャが父の故郷であるスペイン南部の町に向かうところで終わる
「エル・スール」はスペイン語では「南」を意味する。
「私は興奮をおさえきれませんでした。初めて南を知るのです」
ラストシーンのエストレリャの台詞だ。映画において、「南」は憧れと謎の地のままだ。ところが小説では父の死後、アドリアナは実際に父の故郷であるセビーリャを訪れ、父親に届いたグロリア・バリュの手紙を頼りに彼女の家(セビーリャにある)まで行くのだ!
そこでアドリアナはグロリアとその息子、ミゲルと会う。グロリアはアドリアナがかつての恋人の娘だと気づき動揺するが、アドリアナは冷静に対応する。ミゲルはアドリアナよりも一つ年下だが、背が高く大人びた少年で、二人はお互いに引き付けられる。ミゲル自身は知らされていないようだが、アドリアナはミゲルの父親が自分の父親であることを確信する。
いかにも俗な展開ではあるが、これはこれで興味深い。
今回原稿を書くにあたり、『エル・スール』に関する資料を読んでいたら、実はエリセはエストレリャが「南」を訪れるところまで撮る予定だったが、興行の都合で撮影が打ち切られたことが分かった。しかもエリセは後半の「南」の部分を喜劇にして撮るつもりだったという。つまり、映画『エル・スール』は「北」と「南」の「北」だけ、「聖」と「俗」の「聖」だけを描いた未完の作品だったのだ。
映画の世界を壊されたくないと小説を読まなかったわけだが、読んで、正直ほっとしたような気持ちになった。
人間は聖と俗を合わせ持った存在である。ある時は聖人のように見える人間が、ある時はとてつもなく俗な人物になる。そこが人間の面白いところだ。
ところが、映画『エル・スール』は人間をあまりにも「聖」として描き過ぎている。だからこそ、完璧なまでに美しかったのだ。
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